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慶應義塾志木高等学校

慶應義塾志木高等学校(けいおうぎじゅくしきこうとうがっこう 英語名: Keio Shiki Boy's Senior High School)は埼玉県志木市に位置する私立高等学校。男子校。慶應義塾の一貫教育校の一つである。

目次 [非表示]
1 概要
1.1 教育方針・目的
1.1.1 教育方針
1.1.2 目的
1.2 校風
1.3 環境
1.4 象徴
1.4.1 校歌
1.4.2 スクールカラー
1.4.3 マーク
2 沿革
2.1 経緯
2.2 年表
3 年間行事
3.1 クラスマッチ
3.2 研修旅行・見学旅行
3.2.1 研修旅行
3.2.2 見学旅行
3.3 志木演説会
3.4 志木の森ツアー
3.5 BLS講習
3.6 収穫祭(文化祭)
3.7 マラソン大会
4 授業
4.1 履修可能な言語一覧
5 クラブ
5.1 体育部
5.2 文化部
5.3 同好会
6 入学・卒業
6.1 入学生
6.1.1 内部生
6.1.2 外部生
6.2 進路
7 通学手段
8 著名な出身者
9 系列校
10 その他
11 関連項目
12 参考文献
13 外部リンク


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概要
略称は「志木高(しきこう)」「慶應志木(けいおうしき)」など。1学年6クラスで計約250名、全校生徒数は約750名である。卒業生のほとんどが慶應義塾大学へ進学する。

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教育方針・目的
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教育方針
教育方針は以下の4項目である[1]。

塾生としての誇りを持たせること
基礎的な学問の習得
個性と能力をのばす教育
健康を積極的に増進させること
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目的
生徒手帳の1頁目には、「慶應義塾の目的」という福沢諭吉の文章が載っている。内容は以下の通りである。

慶應義塾ハ単ニ一所の学塾として
自から甘んずるを得ず其目的は我日本国中ニ
於ける気品の泉源智徳の模範たらんこと
を期し之を実際にしては居家処世立国の
本旨を明にして之を口ニ言ふのみニあらず躬行
実践以て全社会の先導者たらんことを欲する
ものなり 以上は曾て人に語りし所の一節なり 福澤諭吉書
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校風
校則と呼べるものはまずないため、自由な校風である。たとえば、制服は定められているが普段の服装は自由、休講となった授業の時間は学校に全く拘束されない(要するに大学と同様)、など。同時に自己責任が問われることも事実である。これは福沢諭吉の建学精神である「独立自尊」に由来する。また、緑豊かな環境、原則全員が慶應義塾大学に進学できるため進路の心配がないことなどが、のびのびとした校風を形成している。

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環境

校内の畑と田んぼ校内の敷地は広大(37000坪)で、県有数の森や竹林があり、植生が豊かである。数多くの植物のほか、鴨や蜂、まれに狸、モグラなども見かける。農業高等学校の名残から、校内に作られた畑で耕作授業も行われている。このような恵まれた自然環境は本校の特徴のひとつである(生徒一人あたりの敷地面積は他の高校と比べると非常に広い)。

農業高等学校時代に農地だった土地は現在グラウンドとして活用されている。また以前は野火止用水が流れていたが、現在は流れていない。現在の敷地面積は農業高等学校時代と比べると半分ほどに減っている(慶應義塾の財政難の対策として所有していた土地を売ったため)。

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象徴
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校歌
独自の校歌はないが、『慶應義塾塾歌』がこれに相当する(入学式などの式典時に斉唱する)。

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スクールカラー
塾旗に由来する青赤青の横縞の並びである。学生服の裏にはこの模様がデザインされている。

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マーク
「ペンマーク」と呼ばれる、2つのペンを交差したマークである。「ペンは剣よりも強し」を表現している。学生証、学生服のボタンなど様々に用いられる。

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沿革
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経緯

松永安左ェ門君像1858年、慶應義塾が創立した。1944年、日吉キャンパス内に慶應義塾獣医畜産専門学校が開設された。当初は大学農学部の予定であったが、戦時下における政府の方針などから農業専門学校に短縮された経緯がある。翌年(1945年)、アメリカ軍により日吉キャンパスが接収されたため、川崎市蟹ヶ谷の旧海軍東京通信隊の施設を借用して、授業を再開した。当時の生徒数は600名だった。1947年、塾員松永安左エ門によって寄贈された埼玉県志木の地に移転した。1948年、戦後の学制改革により農業高等学校に転換し、1957年には普通科高校に転換、慶應義塾志木高等学校となった。普通高校に転換した時に、慶應義塾大学への無試験での進学が認められるようになった。

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年表
1944年 慶應義塾獣医畜産専門学校が日吉キャンパス内に設立される。
1945年 川崎市蟹ヶ谷に移転。
1947年 埼玉県志木(現在の所在地)に移転。
1948年 学制改革により慶應義塾農業高等学校に転換。
1957年 普通科高校に転換、慶應義塾志木高等学校が発足。
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年間行事
4月
入学式
新入生歓迎会
クラスマッチ
5月
研修旅行(一年生)
7月
志木演説会
8月
志木の森ツアー(自由参加)
10月
研修旅行(二年生)
見学旅行(三年生)
BLS講習(一年生のみ)
収穫祭(文化祭)*11月にわたる場合もある。
12月
マラソン大会
志木演説会
2月
スキー教室(自由参加)
3月
卒業式
志木の森ツアー(自由参加)
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クラスマッチ
各クラスが5つ程度の球技で優勝を競う。球技大会。

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研修旅行・見学旅行
本校では毎年国内へ旅行する。一年生と二年生は研修旅行、三年生は見学旅行に行く。

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研修旅行
校外へ赴き、総合的な学習やさまざまな科目(理科が中心だが、他に芸術や体育の研修もある)の学習を行う。2006年度の行き先は一年生は箱根方面、二年生は東北方面(志津川・歌津)である。課題、レポートが課せられるため、安易に楽しめないようである。

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見学旅行
他校で言うところの修学旅行に相当する。研修旅行と異なり、あくまで観光目的の旅行である(レポートなどはない)。2006年度の行き先は北海道である。

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志木演説会
年二回、さまざまな分野の専門家の講演を拝聴する。『三田演説会』に倣ったもの。

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志木の森ツアー
林業三田会所属の本校11期卒業生、吉田善三郎氏より寄贈された三重県の山林(福沢記念育林会所有)に出かけ、林業体験の合宿生活を送る。植林活動やプロット調査が主な目的だが、カヌーや野外料理、サイクリングなどを通じて自然との触れ合いを体験する。

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BLS講習
救急救命の講習会を受ける。BLS(Basic Life Support)教育は慶應義塾全体で取り組んでいる活動である[2]。

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収穫祭(文化祭)
各クラスやクラブ、団体による展示や発表が行われ、毎年5000人もの来場者が訪れるとされている。昔農業学校であった名残から今なお「収穫祭」と呼んでいる(ただし、実はこの名がついたのは普通高校に転換するときである)。通常、10月末から11月はじめにかけた土・日の二日間で行われる。

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マラソン大会
体育の一環として校外にて約10kmのマラソンを行う。

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授業
大学を受験する必要がないため、受験・テストのための勉強は多くの場合しない。そのため生徒は、大学の入学試験を苦手とする傾向にある。カリキュラムも独特で、個性ある教員によってユニークな授業が展開される。

定期試験は年3回、学期末(本校では1年間を単一学期としているが、ここでは便宜上学期を3つに分ける)におこなわれる。厳密に言えば、成績は年度末のみ記録される。ただし、第1期, 第2期の期末にはその段階(学年始めからの通算)での習熟度の目安を示すために、成績評価が行われる。各学年において一度ずつだけ留年が許される(最長で6年間在籍可能)が、二度続けて進級に失敗すると退学しなければならない。

また、課外語学講座が設置されており、生徒は誰でも自由に履修できる。履修可能な言語はアイヌ語を含めて22にのぼる。これは、本校の特色として注目される。

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履修可能な言語一覧
アイヌ語
アラビア語
イタリア語
インドネシア語
ヴェトナム語
古典ギリシア語
古典ラテン語
サンスクリット語
スペイン語
スワヒリ語
タイ語
中国語
朝鮮語
ドイツ語
トルコ語
ビルマ語
フランス語
ヘブライ語
ペルシャ語
ポルトガル語
モンゴル語
ロシア語
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クラブ
端艇部などが有名で、端艇部はインターハイの優勝経験も持つ。慶應義塾大学、慶應義塾高等学校、慶應義塾女子高等学校との合同練習がおこなわれるクラブもある。2006年度、以下の18の体育部と11の文化部、1の同好会(文化系)がある。

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体育部
硬式野球部
競走部
卓球部
庭球部
端艇部
蹴球部 *サッカーではなくラグビーを指す
柔道部
バレーボール部
ホッケー部
サッカー部
バスケットボール部
弓術部
ゴルフ部
剣道部
スキー部
ソフトテニス部
水泳部
軟式野球部
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文化部
英語部
生物部
天文部
音楽部
新聞部
マンドリンクラブ
器楽部
電子工学研究会
鉄道研究会
囲碁,将棋部
應援指導部
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同好会
美術同好会
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入学・卒業
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入学生
入学生は内部進学者と外部受験者の二つに分けられる。

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内部生
慶應義塾普通部あるいは慶應義塾中等部から本校へ進学した者。

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外部生
入学試験を受験し、合格して入学した者。多数の生徒がこれに当たる。

倍率は高い。参考までに、2006年度の一般入試の倍率(合格者数に対する志願者数)は4~5倍である。同年度の自己推薦入試の倍率は約4倍である。

本校の入学試験には以下の3種類がある。

一般入試
自己推薦入試
帰国子弟入試
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進路
本校卒業生全員が学校長から慶應義塾大学への推薦を受けられるため、主に他大学を受験する生徒を除いた(他大学を受験する場合、推薦を辞退しなければならない)卒業生の殆どが慶應義塾大学の各学部へ進学する。進学する学部は基本的に各人の志望が尊重されるが、実際には在学中の成績・出欠状況を考慮したうえで、決定される。

また、慶應義塾大学の理工学部か医学部のいずれかに進学するためには、第二学年及び第三学年で必修選択科目で化学・物理を選択することの他に、第三学年での自由選択科目で定められた理系科目(理工学部と医学部では多少異なる)をとることが条件となっている。

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通学手段
東武東上線志木駅東口より徒歩約7分
自転車通学:届出制
なお、かつては自宅からの距離が遠いため通学困難な生徒のために学生寮が併設されていた。ただし、全寮制ではなく、通学生の比率の方が高かった。寮は高翔寮と有隣寮の2棟があり、高翔寮は1962年、有隣寮は1964年に完成。当時の慶應義塾の一貫教育校で寮を持つのは志木高が唯一であった。しかし、公共交通機関の発展などの影響から年々入寮者が減少したため、1987年度の新入生を最後として募集を終了、1990年に閉鎖された。寮のあった敷地は売却したため現在はマンションなどが建っている。

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著名な出身者
逢沢一郎(自民党幹事長代理、衆議院議員)
永田寿康(元衆議院議員)
松下賢次(TBSアナウンサー)
吉澤一彦(テレビ朝日アナウンサー)
清水俊輔(テレビ朝日アナウンサー)
平野浩志(損害保険ジャパン前社長)
浅野秀則(フォーシーズ社長)
大川弘一(まぐまぐ社長)
石原裕次郎(俳優・歌手) *一年間のみ在籍(うち半年は休学)、翌年慶應義塾高等学校に編入
大戸武元 (ニチレイ会長)
山田豊彦 (東急建設社長)
相川宗一 (さいたま市長)
市原健一 (つくば市長)
櫻井哲夫(ベーシスト)
山口貴士(弁護士)
馬場信治(東京個別指導学院社長)
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系列校
慶應義塾大学
慶應義塾外国語学校
慶應義塾高等学校
慶應義塾女子高等学校
慶應義塾湘南藤沢中・高等部
慶應義塾ニューヨーク学院
慶應義塾普通部
慶應義塾中等部
慶應義塾幼稚舎
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その他
石原慎太郎が弟石原裕次郎の生涯を描いた小説『弟』には、当時農業高等学校であった本校の様子を「その頃の慶応内の落ちこぼれたちの吹きだまり」と描写している。
2004年、日本国内では高等学校として初めてAED(自動体外式除細動器)を校内に設置した[3]。
本校正門前の車道は「慶応通り」と名づけられている。
校長は慶應義塾大学(特に法学部)の教授が兼任するのが通例である。
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関連項目
慶應義塾
中高一貫校
私服校の一覧
男女別学校の一覧
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参考文献
慶應義塾編 『慶應義塾豆百科』 慶應義塾大学出版会、1996年。
慶應志木会 『慶應志木会会報』vol.12 1994年